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沖縄空手|館長のブログ

武道の神のお祓い

明治維新以降、敗戦まで、神道は日本人に愛国心と忠誠心を植えつけることに利用された。
我が国では、古くからこどもが誕生すれば神社へお宮参り、人が亡くなればお寺でお葬式をする。
CIMG1113.jpg 神仏混淆と呼ばれ、神道と仏教は親和性が良く、両信仰を折衷した神仏習合が日本文化である。
古くから日本人は豊かな自然現象に神々しさを感じて、森羅万象に八百万の神の存在を信じてきた。
近年、沖縄の道場でも、明き、清き、正しき、尚き心で稽古に取り組めるよう神棚があってお札を祀っている。
道場の神棚へ祀る代表格が「鹿島大明神」と「香取大明神」なのだが、小生に足を延ばす機会があって、香取神宮にて御祈願した。
必勝祈願と書いた受付を済ませ、しばし祈祷控室で待機させられた。
まもなく時間がきて、本殿へ案内された身に正座でお祓いがあった。
二礼、二拍手、一礼のち、「掛けまくも 畏き 伊邪那岐の大神・・・○#%△□・・・」と祓詞が始まった。 CIMG1103.jpg
直接大神様への願いはエネルギーが要るので、守護神を通してお願いすることにした。
一回目の礼は自分の守護神へ二回目の礼は大神様へ行った。
二回の拍手は誠の心を捧げ、感謝の意を示し、キレイな音だまが出きるよう柏手の如く行なった。
お祓い後に、由緒ある香取の武道の神様の神札と体育勝運守の人気お守りをゲットした。
さて、今年は「意識の改革と行動の変容」で人生修行にご利益はあるだろうか。


2009年1月28日 16:53 |

山中の賊・・・

心と身を正し、態度と行いを正すことは、修行の基本である。
空手の究極の目的が「精神修養」といわれる所以がそこにある。
旧き時代の中国思想の指導者・孔子は「仁」を説き、仏教の開祖・釈迦は「慈悲」、救世主・イエス キリストは「愛」を説教した。 090107_1512~0001.jpg これらの教義の究極は「正義」であり、「悪を憎み、恥を知る」ことが出発点である。
直心影流島田虎之助は「剣は人なり。心正しからざれば剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば、先ず心より学ぶべし」と言ったそうだ。
実生活の心の邪念を払う、驚愕疑惑を起こさぬようにするにはどうすべきだろうか・・・巧くいかな理由探しをするより、自分の目標を設定し、工夫して日々の難儀と闘い鍛錬し、それを自ら掴み取るしかないでしょう。
眼の前の敵は、明確に意識して対応できるが、心の中の邪念=山中の賊は強敵だ。山中の賊を取り払う方法は、修行しかないでしょうか・・・
さらに、より怖い「獅子身中の虫」も存在する。
それは、味方でありながら内部から災いをもたらす者や恩を仇で返す者を言うそうだ。
獅子の身体に寄生し、獅子を死に至らしめる虫の意から、仏教を害する仏弟子の喩えという。
道は違うが、修行の身が肝に銘じておく言葉なのだろう。


2009年1月15日 16:48 |

合同稽古で手合わせ・・・

今日は鏡開き。
このことに関係ないが、メンバーが揃うのに都合がよかった。
午後から小生の稽古場(電脳道場「志道舘」)にて、千武館のS館長、養心館のM館長の三人で今年最初の手合わせを行った。 CIMG1071.jpg CIMG1062.jpg
以前からやっている館長クラスの型の確認稽古である。
普及型に始まり、アーナンクー、ワンシュー、セーサン、パッサイ、五十四歩、チントー、クーサンクー、徳嶺ぬ棍、津堅ぬ棍、津堅赤人エーク、志喜屋仲ぬ棍、添石ぬ棍・・・一つずつ丁寧に流す。
武歴40年を超えようが、独り稽古では正確な型は維持できないように思う。
修練・修行の過程、段階を示す言葉に、守破離がある。
その意味は、「守」は師の教えを忠実に真似、ひたすら基本を身につける段階。
「破」は今までの教えを基礎として自分の個性を活かし、自分の工夫を加え、自分自身のものを創造する段階。 CIMG1064.jpg CIMG1070.jpg
「離」は最初の教えを中核にして、悟って独自の境地に達した段階。
これらの段階を経て、無意識で奥義を窮めると言われる。
皆伝允許の独り稽古は、ややもすると我流に陥り、型の崩れや変化は見逃しがちです。
「規炬作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても もとを忘るな」と千利休は言ったそうですが、まさしく心に響く言葉である。
沖縄では琉球舞踊の多くの著名な師匠がいますが、そこでも手合わせしての確認稽古はあるようです。
同様に、斯道でも、高段者が交流した手合わせの稽古は有意義で続けたいものだ。


2009年1月 9日 16:40 |

ムーチーのお裾分け・・・

年末・年始最終日の3日は、旧暦12月8日、沖縄ではムーチー(鬼もち)があったが気付かなかった。
正月とムーチーが、一緒にやって来るのが珍しい。
ムーチーは、もち米の粉を捏ね、月桃(サンニン)やクバ(ビロウ)の葉でキレイに包み、蒸して仕上げる。
面倒な作業だが、当地沖縄では仏壇への健康祈願の供え物にしたり、赤ちゃんの生まれた家庭では、近所や親戚に配る習慣がある。
090107_1512~0001.jpg 090107_2105~0001.jpg また、その頃はムーチービィーサと呼ばれる一段と肌寒い季節を迎える。
いつもの新年に比べ、元日の朝は冷え込み、気温が平年より低かったという。
期間中、正月のご馳走で、当然の如く摂取量が増えるので、減量のため元日からジョギングを始めた。
そのせいで早々、不覚にも風邪に見舞われた。
それでも出来る範囲でジョギングは続けているが、今年の風邪はタチが悪く、症状は完治していない。
そんな中、今朝早く、去年3人目の孫が出来た兄が、縁起物のムーチーを届けてくれて、ありがたく思った\(^o^)/
最近の餅は、バリエーションが豊富で色も鮮やかで、黒糖、紅芋などが混ぜ合わされていてプルルンと柔らかく美味しかった。
更には、カロリー摂取にも気配りし、幾分小さ目に包み込んだの嬉しかった。(謝)


2009年1月 7日 16:35 |

以和為貴・・・なごみ☆

禅でいう「自他不二、争心なし」は、自分と他人を一体と考え、主客一如になれば、彼我の利害関係から無我の境地へ達することをいう。
この境地では、真の自己、直指人心、見性成仏の悟りの世界が見えて、人間の関係は不争であるいう。
pic0020.jpg 神道無念流斎藤弥九郎の薫陶を受けた長州藩の木戸孝允は、生涯を通して一度も剣を抜いて人を殺したことがないという。
その斎藤弥九郎の教えに「武は戈を止むるの義なれば、少しも争心あるべからず。剣を学ぶ人は心の和平なるを要とする。兵は凶器といえばその身一生用うることのなきは、大幸というべし」との言葉があるという。
一方、「空手に先手無し」は富名腰義珍の言葉で知られるが、拳聖喜屋武朝徳も、「長年、修業して体得した空手道の技が、生涯を通して無駄になれば (一度も実戦で使う機会がなければ)、空手修業の目的が達せられたと心得よ」 と弟子たちに諭したという。
剣術も唐手も修行の究極の目的は、人を傷つけず、争わずして全てを調和させる心と技を磨くことなのだろう。


2009年1月 2日 16:30 |

新年随想・・・

一年の幕開けがやって来た。
沖縄の幕開けの曲といえば古典音楽の「かきやで風節」がある。
その日ばかりは正月バージョンで、歌詞が「新玉の年に 炭とぅ昆布飾じゃてぃ 心から姿 若くなゆさ」(アラタマヌトゥシニ タントゥクブカザティ ククルカラスィガタ ワカクナユサ)へ変わる。
意味は概ね「新しい年の始めには、縁起物の木炭と昆布を飾って、いつもの事ながら心も姿も、若くなったような気持ちがする」ということだ。 ptarn3.jpg
だが、歌い手にも一年に一度しか歌わないので、次の年には歌詞を忘れるようである。
よく「一年の計は元旦に有り」といいます。
目標やこれからやろうと思っていることは、元旦に決めるのが良いという意味です。
歌詞同様、一度決めたっきりで、努力を怠ると実現できるはずもありません。
また目標は、達成可能のものでなければ意味がありません。
最初から難しい目標を立てて実現できず挫けるより、簡単な目標から挑戦することにしよう。
一度達成して、それを励みにして次の目標にも挑戦するのもいいだろう。
また、その目標をただ一人で黙々とやるのではなく、外に向かって発表して達成すると宣言すると良いだろう。
さて、あなたの新年の目標は何でしょう。
あなたは、その抱負を他に語ってみたことがあるだろうか。
「継続は力なり」といい、真の強さは正しい念願を貫くことにあるという。
今年の干支は丑だ。
牛の如く誠実で強くなろう。
真の強さは一道を貫くことだ。
短気を起こし怒れるごときは、弱者の至れるものだ。
誘惑に負け、生活の規律を乱し品性の卑しくなるごときは弱者の標本だ。
なにくそ、今年は真の強さを求めて、度量の大きい人間をめざそう。


2009年1月 1日 16:25 |

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