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沖縄空手|少林寺流斯道の舘

拳聖喜屋武朝徳先生とは

先生は、琉球王国最後の親方の位を授かった父親・喜屋武朝扶と母親・真松の男六人、女六人計十二名の兄弟姉妹の三男として、1870年12月首里儀保村(当時)にて誕生した。 ayu5.jpg
父・朝扶は国王・尚泰候の家扶の要職(鎖之側)にあり、沖縄空手の中興の祖松村宗棍先生の一門として名を連ねる文武両道に長けた高潔な人格者であった。そのため、明治維新の慶賀使(1872年9月14日、正使・伊江王子、副使・宜野湾親方)においては、賛議官として随行した。
この家柄で、喜屋武朝徳先生は六歳頃から父・朝扶から空手の手ほどきを受け、長じて当時の空手界の重鎮で首里手の松村宗棍、泊手の松茂良興作・親泊興寬などから伝授された型を集大成し、「首里手」の達人となった。藩王の冊封(廃藩置県・274藩が廃止され46府県置く)後、尚泰候が東京飯田町に邸宅を賜り、いわゆる琉球国王も江戸屋敷住まいを命ぜられる。
父・朝扶は、琉球処分後の1879年5月、国王・尚泰候の上京に随行していくことになるが、拳聖喜屋武朝徳先生の論稿(空手の思い出、1942年5月)によれば、喜屋武朝徳先生が上京するのは、それから数年後になる。
上京後は、厳しい父の指導の下、毎日のように修行に修行を重ねた。在京中は、二松舎学院に在籍して、時の有名な漢学者・三島中州先生(二松舎学院創設者)に師事し、漢学を学んだ。
数年の在京生活を経て、家庭の都合で帰郷するが、明治維新、廃藩置県という激変する社会の中で暫く苦汁の日々を送る。
王府が消滅した後、多くの士族階級は地方に下り(田舎下り)、新たな入植地での生活を余儀なくされるが、先生も例外でなく読谷村の牧原(尚家直営の放牧地)に移住し、馬の飼育係りとして入植し、武の修行は続けた。牧原の馬場管理人・北谷屋良親雲上から「公相君」を伝承したのもその頃だといわれる。
また、入植者と近隣住民との諍いもある中で、民俗文化に造詣が深い喜屋武朝徳先生は、近隣の屋良まで出かけ、「屋良のチンク(※嘉手納町指定無形文化財)」の演舞の手ほどきをし、地域との交流に貢献したという。
近隣との交流が深まる中、屋良のリンドー家の娘を妻としてむかえ、住居も読谷村比謝矼の一角へ移す。
養蚕の傍ら、荷馬車引きなどをして生計を維持しながら、農林学校生、嘉手納警察署員、青年師範学校を中心に空手指導を行なう。
この唐手研究所は、1930年1月に出版された斯道の古典書「拳法概説(東京帝国大学唐手研究会・三木二三郎、高田瑞穂著)」の沖縄実地調査書(1929年7月)として報告されたのである。ayu6.jpg
のちに、長嶺将真先生(世界松林流宗家・無形文化財保持者)、糸数盛喜先生(沖縄硬軟流宗家・無形文化財保持者)、仲里常延先生(少林寺流宗家・無形文化財保持者)などが、喜屋武朝徳先生へ師事し、斯道の志しに大きな影響を与えたといえる。沖縄県指定無形文化財「沖縄の空手・古武術」保持者十人中、三人が拳聖喜屋武朝徳先生へ師事したことになり、沖縄空手道の各流派の生成に大きく関わったことになる。
晩年は、第二次世界大戦で沖縄が戦場と化して、戦禍を逃れて牧原の壕へ避難し、捕虜となる。読谷村楚辺の収容所を経て、石川捕虜収容所での病床の生活を余儀なくされるが、最期まで巻藁がわりに縁側の柱(ハァーヤ)を突く、拳音が響きわたったという。
1945年9月20日没。享年76.


2008年5月20日 16:30 upload

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