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沖縄空手|少林寺流斯道の舘

避難民収容所跡を訊ねて

探訪雑感
~拳聖の最期の地を訊ねて~

少林寺流空手道 親川仁志

「拳聖」喜屋武朝徳先生の命日は1945年9月20日である。終戦の年、旧美里村にあった石川避難民収容所での劣悪な栄養状態での病死といわれる。
かつて、由緒或る首里王府で生まれた多くの士族たちは華やかな時代の中心から、廃藩置県による社会構造の変化で"廃藩の武士"と揶揄された。
「拝で 悲ちかさや 廃藩の士 前たりかんてぃ 馬小引んち」
その意味は、琉球の士族として肩で風切るステータスから、職を失い、顔を隠し、帽子で身分を隠して馬車を引く身に落ちぶれた様子を謳った沖縄の言葉である。
そして、あの悲惨な地上戦争への突入、そして敗戦と、多くの困難な出来事の中、拳聖喜屋武朝徳も、波乱に富んだ生涯を送ったといわれる。
沖縄少林寺流空手道宗家の仲里常延先生は青年期に拳聖と師事した間柄、その編著で、恩師喜屋武朝徳先生の比謝矼在住時代の暮しぶりや、語り継がれた武勇伝を紹介し、空手人としての威名と高潔さを著述している。
いつの時代でもそうだが、多くの人々にとっては人生は諸行無常、人生のいたるところに山あれば谷あり、陽と陰を有するものである。
もう随分先のことです。
読谷村の歴史資料館のヒヤリング活動で喜屋武朝徳先生の最期を見たとの証言情報を得ることが出来た。この機会に喜屋武朝徳先生を道統する少林寺流空手道門弟として、あの忌まわしい沖縄戦の直後、拳聖喜屋武朝徳先生がどのような最期をむかえられたのか各証言を聞き書きする。
2003年10月19日、読谷村古堅在の設計士を営むI氏の案内で、仲里常延先生に同行して、石川市(当時は美里村)の避難民収容所のあったという屋号「前屋良小」を訪ねた。PIC00035.jpg戦後の石川市については、沖縄戦で米軍が造った避難民収容所、その周囲には戦火に追われた3万余の人々で溢れたと記録されている。
人口2000人の農村は数ヶ月で「大都市」に変貌した。テント小屋、茅葺小屋などの仮設住宅がすき間なく立ち並び、多くの人々が、知らない土地で、戦争で受けた傷を癒す間もなく、その日を生き延びることで精いっぱいだったという。
軍作業に駆り出され、食糧や物資の確保に追われる毎日。住民はそれぞれ親戚や出身地ごとに毎晩のように集まったが、明るい話題などない時代だったと・・・記録されている。また、戦後の最初の行政機関である「沖縄諮詢会」が設置され、その中に文化部が設けられ文化復興の活動がはじまっていて芸人たちも次々と石川に集められたと報じている。
終戦当時30歳で家主の故I・H(88歳)様には「拳聖」喜屋武朝徳先生が過ごしていた最期の場所と当時の状況を証言して頂き、録音して保存してある。
しかし、訪問から20日足らずに、H様が翌11月6日にご逝去したとの突然の訃報に接した。
今後、あらためて詳しくお話しを聞く機会を考えていた矢先の出来事で残念でなりません。喜屋武朝徳先生の最期の地を訊ね、病床にあった現場を案内してくれたH様に対し感謝申し上げるとともに、今となっては、偶然とはいえ浅からぬ因縁をも感じます。
(故IH様証言より)
当時、焼け残った集落の家屋が多少はあったが、米軍によって殆んど没収されたようである。この屋号前屋良小もH様が避難先から帰村した昭和20年9月上旬ごろは米軍に収奪され、多くの避難民が同宅地内の「カバ屋」に身を寄せて生活していたとのことである。カバ屋とは、野戦用テントに囲いをつけたテント小屋で、終戦時は避難民の多くがその小屋での生活を余儀なくされたという。いわば戦後復興の最初の住居である。
喜屋武朝徳先生夫妻は前屋良小母屋の縁側(廊下)二帖程の狭い場所に身を寄せて暮らしていた。その頃から眼が不自由で身体が衰弱し病床にあって、比較的大柄な喜屋武先生の妻がいつも看病していたと言う。PIC00029.jpg戦後、離散した父母を娘が探しあてたときは、時はおそし、父喜屋武朝徳先生は失明状態で、まもなくして飢餓による栄養失調で亡くなったという。遺体は、石川の共同墓地に埋葬されたとのことである。
(HS氏証言より)
剛柔流比嘉世幸先生の高弟・HS氏(糸満市)が手紙で、戦時中、開南中学の頃の思い出で、つぎのような証言を寄せている。
「戦中旧制中学で読谷飛行場作業に動員され集団行進で街道側の喜屋武朝徳先生の家の前をよく通った。私は、南部で捕虜となり石川以北の男性だけの収容所に入れられた。石川の収容所には同郷の人や家族も多数いると聞き、米軍トラックの積荷に隠れて某収容所抜け出して、石川の収容所に入った。」
さらに「其処での雑役で死体を担架での運びにつき、村外れの赤土の森に埋葬の穴が掘られ、仏様をそこに投げ捨てるように作業に従事した。其処で周囲をみて立板と瓶の中に片仮名で【チャンミーグワァー】と書いてあるのを見た」と話している。
多くが無縁仏であったが、明らかに喜屋武朝徳先生の墓標は区別され、分けられていたようである。HS氏は喜屋武朝徳先生に関して比謝矼付近と石川の収容所のことを克明に記憶している。
(IS氏証言より)
2004年3月下旬、故IH様の長男IS氏(終戦当時11歳)から、更に細かい避難民収容所における拳聖喜屋武先生に関する証言が寄せられた。
それは、IS氏が恩師仲里常延先生の編著へ投稿している。
喜屋武朝徳先生は他の嘉手納町民と共に収容所内で生活し、部屋が母屋の廊下で約半坪畳1枚程であったことや、当時、寝たきりの生活だったこと。また先生の奥様が、大柄で、きちんと髪を結い、気品ある姿が印象的だったしています。IS様の母IH様は、沖縄戦で夫を失い、4人の子供を世話する為、米軍の作業で働いていたそうです。
時々、作業場から米国製の缶詰を家族のために持ち帰り、喜屋武朝徳先生へお裾分けしたようです。
その際、先生は「イェー、女グァ・・・、メーニチ ニフェードゥ 我ンガ ゲンキ ナイド際ヤ 我ン 手ヌ カタ 見シラヤー」(娘さん毎日有難うね。自分が元気なったら、お礼に空手の型を見せようね)と母に言っていたそうです。日ごろから宗家仲里常延先生は、喜屋武朝徳先生の徒手空拳の鍛錬法として、「達人の道」を門弟に説くが、この証言は、喜屋武朝徳先生のその実践ぶりをよく示していると思われる。即ち、空手の修行においては、狭い場所(畳1枚でも)でも、横になっていても(病床にあっても)最期まで拳を鍛練し続けたことである。当時、病状も進行し身体に不自由さがあったと思われる喜屋武朝徳先生の居る場所から、縁側の柱(ハァーヤ)を突く拳音が響きわたったそうです。沖縄の空手界において、喜屋武朝徳先生の巻藁での拳の鍛錬法は、夙に有名である。
しかし、先生も老齢と食糧不足に勝てず「前屋良小」で亡くなったようです。
その後は、市街地の松林の山林に穴を掘って集団墓地で埋葬されたとのことですが、数年後は先生のお墓が見あたらなかったと報告しています。
うわさでは、先生の身内の方が洗骨されて、郷里の嘉手納に帰られたのではないか話していますが、戦後の混乱のなかさだかでないと結んでいます。
拳聖喜屋武朝徳先生の最期の地を探訪して、これらの証言を目の当たりにし、「比謝矼時代」~「石川避難民収容所」、~「1945年9月20日の日・・・」、「栄養失調による病死」、「共同墓地への埋葬」などの話しを訊くにつれ、その時代にタイムスリップしたような気さえした。
かくして沖縄戦では、斯道の大家、喜屋武朝徳先生を失った。
尊い人命を奪い、文化を破壊する戦争、先人たちが創造した文化を破壊した。
当時の出来事に、メディアコントロールとして新聞社の統廃合、学校における空手教育の禁止、英語教育の禁止、兵士の士気高揚と慰問演武会の開催などがあった。
そして今、アフガンやイラクなどアメリカの行なう戦争はメディアが報道し、その悲惨さは、臨場感さえも醸しだす。TVが映し出す人命にかかわる殺戮シーンは、眼を覆いたくもなる。
先人が築いた「地域の宝物」までも破壊し、略奪し、その国へ傀儡の政府を創り、経済や文化までも支配する。そして、異国文化を増殖させていく。これから、古代文明の発祥地をどのように変貌させていくのだろうか。
日米を基軸とする関係のもとで、イラクの復興支援ということで日本の自衛隊が派遣される。迷彩服を着た女性看護師が戦地に行く。PIC00016.jpg
派遣隊員の無事帰国を願い「黄色いハンカチ」運動を呼びかける人々の存在を余所にして・・・。
こうした動きに思いを馳せるのは、杞憂なのだろうか。いや、この流れの中で、何ら疑問さえも感じない社会になることこそ、実は恐ろしく、また悲しくもある。
かつて日本は、この道を歩み、太平洋戦争で多くの犠牲を出した。
再び戦争のために武運長久を祈ることがないよう平和な国になればと願う今日この頃です。

2004年4月13日


2008年7月17日 00:12 upload

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