TOPへ > 館長の小論文 > 「空手の日」に考える

沖縄空手|少林寺流斯道の舘

「空手の日」に考える

~唐手が空手表記に~
「特別な日」宣言に思い複雑

少林寺流空手道 親川仁志

二〇〇五(平成十七)年三月二十九日、沖縄県議会は空手の日の宣言に関する決議をおこなった。沖縄空手が世界の平和と人々の幸福に貢献することに願いを込め、伝統空手の今後の益々の発展を期して、今日の日を「空手の日」と宣言した。
今馴染んで表記する「空手」が、一九三六(昭和十一)年十月二十五日に公式使用された日に因んで、「特別な日」として歴史に残すためという。005.jpg今から七十二年前の今日、那覇市旭町の漫湖沿いに建つ「昭和会館」へ近代沖縄空手の大家が集まり、これまで馴れ親しんできた「唐手」に替えて、「空手」という表記を決定したという。写真に納まる重鎮の先生方(仲宗根源和、知花朝信、真栄城朝亮、城間真繁、宮城長順、花城長茂、屋部憲通、喜屋武朝徳)が話し合って決めたというが、書籍においても呼称変更の理由は定かでない。いにしえの時代、「万国津梁の民」と謳われた先人たちは隣国「唐」との文化交流の中で、琉球元来の「手」に中国武術を取り入れ、「唐手」を編み出したといわれる。なにゆえに、この年に呼称を「唐手」から「空手」へ改める必要があったのだろうか。
不幸にも当時の日本は、翌年(一九三七年七月七日)、日中戦争が勃発した。唐手の呼称変更については、この出来事と無関係ではないだろう。当時の国民皆兵思想という世の中の動きに連動して、唐手の稽古が勝負本位に荒々しくなったという。つまり、「不闘の武術」といわれる形稽古を重視する指導方針から、自由組手や乱取り稽古へ変化していったのである。こうした社会背景の中で、敵国「唐」の文字を使う「唐手」の表記は許されなかったのであろう。
剣道に柔道と他武道がひしめく日本の武道界における空手道の歩みは、沖縄における歩みとは異質である。古くから日本武道の個々の集団は、好むと好まざるとに拘らず流名で呼んだ。当時は、流名のない武道は軽視されるという武道的背景があった。一九二九(昭和四)年頃から、那覇手は剛柔流を以て、那覇手と首里手の折衷派は糸東流を以て、日本武道界へ進出した。この流名のルーツを探ることより当時の武道会を取り巻く社会背景や体制を知ることも大切だ。 CIMG0570.jpg
それから時を経て一九三七(昭和十二)年、空手が日本武徳会へ正式に加入した。それまで書いた「唐手」だと、中国から来た武術で日本古来の武術ではないからと、初めて唐手の呼称が「空手」へ改められたといわれる。それでも当時は、日本武徳会柔道部の中の空手部であったというから不思議である。称号審査は柔道の関係者が行い、日本武徳会教士号や錬士号が允許されたといわれる。こうして創成期の日本空手道は、柔道の影響を色濃く出している。立命館大学の空手部の発足に関する興味深い座談会記事がある。それによると、柔道界で高名を博している某先生の援助で、空手道は武徳会入りが決まったそうだ。大学での空手部発足の際、発足してから「唐手」にしたのでは中国から来たものだと云われるので「空手」としたとある。
むろん、「唐手」が中国から来た(影響を受けた)と言うことを認められないという理由だけで「空手」へ表記が改まったとは思わない。空手の海外への進出にあたり、日本空手道の成し遂げた役割は大きいことは認めるが、何故従来の「唐手」ではダメだったのだろうか。先に述べた大家の情勢座談会の記録の中に、当時、沖縄から本土へ「唐手」行脚しながら日本空手道へ与せず、独自の沖縄唐手の伝統を守りつづけた拳聖喜屋武朝徳先生の発言がひと言も無いのが興味深い。また、師は一九四二(昭和十七)年の五月の論稿『空手の思い出』の中で、「小さい琉球に武器なき平和な王国の武術たる空手が、富名腰義珍君が単身上京して広めた結果は、琉球の空手が日本の空手として新しい發展を見たのは縣民として富名腰君に感謝し、本場は本場としての威厳を保つべく指導者も被指導者も一團となり、より一層に磨きをかけて精進すべきと思ひます。」と日本空手道の時流に押し流される本場空手の指導者としての複雑な心境を語っている。それにしても空手の本場「沖縄」において、特別な日としてだけで「空手の日」の宣言を行ったとしたら、何かが満ち足りない感は否めない。

2008年10月25日


2008年10月24日 00:20 upload

PAGETOPへ